昭和44年05月07日 夜の御理解



 私共の幸せと言うか、有り難いことになってくるということは、みんなの、善意、善意の中に私があるということですね。人から妬まれたり、恨まれたり、疑われたり、といったような中にあるのではなくて、本当にみんなの善意の中に、自分があるということ、は、もう目には見えない、幸せに包まれておるようなもんだと思うですね。だから信心させて頂く者はそこんところが、善意というよりもむしろ、祈りの中にある、みんなの祈りの中にある。
 そういうその、祈りの中にある自分というものを、そ、大事に、いよいよして、その善意がこちらに、受けられる、その、キャッチできるというかね。人の祈りがこちらにキャッチでけて、そこから、またその有り難い祈りを送り返される。祈り祈られる。そういう中にあるということが、私は、これ信心させてもらう、頂く者だけにしか、分からない、または頂けない、幸せだと思うんですよね。
 最近2、3日、高橋さんがお届けをされる中に、あちらの徳永徳久さん所の息子さんとそれから、中村さんという職人、二人とももう立派な職人さんですが、職人さんたちがどうもその、ものを言わん。仕事場におる、おってもですね。何かその、まあちょっとしたことから、その、ま、もの言わんようになっているということを、非常にまあ苦に病んで、高橋さんがお届けされるんですよね。
 もう高橋さんのねあの素晴らしい所は、神経が行き届くという事だけではなくて、私はこれはもう陰徳だと。だから高橋さんのそのかげの徳を私がここでお話をすることは、本当に返って相済まんようですけれども、これはまあ一つお互いも見習わして貰わにやならんからお話をするならですね、もう店の方達の事を真剣に願われる事ですね。一人一人のことを、もう飯炊きのおばさんたちの事の上まで願われるです。
 そしてあの例えば中にまあそれこそ後ろ足で、砂かけていくような出方をする人があるんですよ、職人さんの中でもね。番頭たちでも、例えばあの、店に迷惑をかけて出て行くっていうのもありますよ。けれどもやはりお取次を頂いて、あの店に入ってきておるのですから、その人のことをしっかり願われるだけではなくてね、例えばそういう人の場合のお届けはですね、違うんです、高橋さんの場合。
 普通は例えばんなら、まあ誰百円なら百円ずつのお初穂で願われるけれども、そうしてですね、あの店を出て行かれるのが、あの大変働いてくれたからというのじゃなくてから、もうそれこそ、店にかえって迷惑かけて出て行くような、その番頭さんたちの上にでも、どうぞ先々あの、氏子が立ち行きますようにという願いをされるだけじゃなくて、もう必ず本当に中身は千円です。
 もうこれは私は本当にあの、申し上げていいかどうか分からんと思うぐらいじゃけれども、やはり聞かにゃ分からんです、ね。誰でも人の知らん信心をしよりますよ。でそれが今日私が皆さんに聞いてもらおうとするその、祈り祈られておるという事なんですね。それを、例えばそのような切実さを持って、高橋さんが祈っておるわけですね。またそれは、言い換えますと、その自分ところに迷惑かけた店のもんが出て行くというんですから、実感としては祈りたくないものがあるかもしれません。
 だからせめてなら形の上なりとも、というのが願い願いかもそりゃ分かりませんですね。本当に心から、あれの幸せを願われんから、それでは相済まんというので、例えば、普通の十倍も、の、お初穂を奉ってその人のことを願われる。もう、本当にそういうところは、あの、行き届くというよりも、お、何て言うでしょうかね、いわゆる善意ではなくってもう、祈りの中にその人達があるという事になるんです。
 だからあちらの店に方たちは本当に幸せだなとこう思うんです。それで毎日そのその今日の中村さんと、徳久さんの一番上の職人さん、しかも二人が熱心にここにお参りをしてくるわけなんですよねえ。そのお参りをしてくる、その二人が職場に行っても、ものを言わんっていうんですから、やっぱり皆が心配して気使う訳なんです。
 ところが今日先にあの、徳久さん達が親子で参って参りました。そしてまあ一番口にお礼を申し上げる事は、今度の連休でですね大変なおかげを頂いたという事を、お礼申し上げとるですね徳久さんが。で最後の300か350かのその余りがでけたんですよね、昨日は、ね。そのそれをあの職人さん達が手分けしてから、その売りに行って、昨日高橋さんが11時頃電話かけた時までは、まだ弁当が残っとるっちいう事やった。
 所が先生もう神様のご都合っちゃもう、こうしてその疲れた上にまた夜の町にそのどっか持ってって売るんだそうですよね、いくらか安くて。それがですねもう本当にきちっと12時までにはもう見事に売れてしもうてから、皆でおかげじゃなあっち言ってから言うて帰りましたっていうて、そのことがお礼の一番。定員さんがですよそれは。そして店の事の色々な事を願うて。
 そのう高橋さん(?)とにかく祈り、祈られておるです。そしたらちょっと時間を置いてから、中村君が参って来たんです。ちょうど僕はあの、途中で徳久さんの車と合いましたっち。徳久さんは自分とこの車でお母さん乗せてきてる。ほでここにお参りをしてきてそんなこう喧嘩でもしとっとるっちいうふうに見えんですよね。そしてから言う事がどういう事かというと。
 今度の連休の、いそが、あの事のについて、先生あのお願いさして頂いておりました、心行を無事終わらせて頂いたっていってお届け、これが一番口です。心行という事を一番で誰んものを言わんという事の様に思っておったらしいんですよ。だからもの言ってなかったわけ誰とでも。だから中村が腹けとると、徳久と喧嘩しとるじゃないじゃろうかといった様なふうに、高橋さんは心配して祈って。
 お取次頂いて願っておるわけじゃけれども、そうじゃあない二人が二人朋その、中心になる職人がお店の事を一生懸命祈っておった。しかもその祈りの中にですよ、ね、例えば今申しますように、その心行自分の心行期間とこう思うて、心行心の行をさせて頂いた、ということがお礼です。はあそげなふうじゃったねって言って私は、私も聞いてからびっくりしたんですけれどもね。
 高橋さんがああして来た時、聞いたら喜ぶ事じゃろうと私は思わせて頂いたんですけれどもね。本当に人間のね、例えば人間ってそのお店の、繁栄っていうか幸せというものを、人間の幸せっていうのは、お互いの善意の中にあるという事ですらも、是は幸せです。ね、恨まれたり妬まれたり、ね、様々なその悪い悪念というものをこっちに送られるようなものではなくてです。
 けれども信心させて頂く者はもっと有り難いという事は、ね、こちらが強い祈りをもって祈れば必ずその祈りが祈りで返って来るという事を、分かるでしょうが。ね。祈りそのそういう有り難い意味合いにおいての祈りの中に、私があるという事をですね、私は有り難いなとこう思うです。ただ通り一遍の祈り願いではなくて、高橋さんが、ね、わざわざ例えばもう店を辞めていく。
 しかも店には迷惑かけて出て行くって言った様な場合でも是は、必ずもう絶対です。何々という氏子がでけま、私の方の店をこうして辞めてまいりましたが、ね、あの氏子が立ち行きます様にというて願われる。しかも願われるその内容ならお初穂ならお初穂でもです、普通はまっ皆の定員の百円ずつをなさるならば、そういう時には必ず千円をやっぱ奮発してというかね。
 それだけ自分の思いの欠けておる所を、そういう事でもカバーしてでも祈り願うという、高橋さんのそういう信心態度という事に、まあ是はいつもの事ですけども、感心致します。そこからです、ね、祈っておる祈り返され様にじゃないけども、なら今日二人の職人さんの、それぞれに参って来てから、お届けをする事はお店の繁盛の事だけ。お店の事おかげを頂いた事のお礼だけ。
 そのために、あっいや心行させて頂いたのも、昨日で完了させて頂いたお礼に今日はその職人出てきてるわけなんです。ね、それがまあ高橋さんにはまあ、その仲が悪くてもの言わんとと思っておったらしいんですけれどもね。けれどもそういうお互いが祈りの中に、自分の店があり自分があると思うただけでも有り難いでしょうが。お互い人間の幸せというのはお互いの善意の中に。
 自分があるという事だけではなくてです。皆の祈りの中にあるという事。それには先ず自分が強い祈りを相手に送らなければいけないという事。ね、そこから自分の周囲の誰から、また祈られる祈り返される、そこに祈りと祈りとが、ね、ま、火花を散らすように、そ愈々有り難いものがそこから生まれてくる。ただ自分の事だけ、自分の店が繁盛する事の為だけに、ただ祈るというんじゃなくてね、
 そういう信心のかい、稽古しかも今高橋さんの例を取りましたのは、この陰徳という事を言われますがね。俺はお前のために願うてやりよるぞと、お前達がこん時には俺はこがしこ奮発してお供えでんしよるぞと言った様なもんじゃなくて、誰も知らん中にそういう信心がでけておる。なるほどこれなら陰徳を積んでいく事が出来るなとも思います。
   どうぞ。